『あひる』今村夏子

3日前にあたる7月17日に芥川賞の発表があり、今村夏子さんが受賞されました。おめでとうございます。

受賞作の『むらさきのスカートの女』は手元になく、未読なのですが、カドフェスの一冊、本書を入手し読了しました。

私はアヒルの大ファンです。あの愛くるしいフォルム、目をひく白さ、つぶらな瞳…。たまりません。幼少期、近くにアヒルを飼っている農家さんがいた関係で、よくうちでは「今日はアヒル見に行く?」「アヒル見に行きたい」といった会話が繰り広げられていました。

さて、読了後真っ先に頭に思い浮かんだのは、「人間の頭の中をそのまま持ってきたみたいだな」ということでした。

人間は、何か出来事を受容し、反芻することで喜怒哀楽を獲得します。出来事を自分が体験した後、人に話すというのも受容のプロセスの一つで、本来の無垢の体験からは離れ、感情的になってしまいがちです。それとは全く逆のありようを作家は描きます。

これはのりたまにはなかった特徴だ。
おかしい。
これはのりたまじゃない。
わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。

「おかしい」というのには喜怒哀楽の感情はありません。「おかしい」と思ったからどうなったのか、怒ったのか、残念に思ったのか、それでもいいと思ったのか、そういった結末が一切なく、話は進んでいきます。

想像力、ひいては観察力のある人間の前では、隠そうとしたことは暴かれてしまいます。その暴露の過程は、社会の中で起こっているのであれば感情を交えるものです。今村夏子の描き方には、当然付け加えられるべき感情が欠落してる。だから頭の中をそのまま持ってきたようだ、と感じたのでした。

だれしも体験している生の体験ですが、時間が経ったり、人間社会で生き、人と関わって会話をしていく以上、感情を絡めた話や経験となるのが普通です。であるならば、この無垢の体験は前面に出てくることはない。それにも関わらず、この作家の描き方は、感情を排除した、淡々とした切り口であるからこそ、多くの人が、例えば解説にあるように、不穏だと感じるのではないでしょうか。普段意識しないものを意識させられる体験というのはえもいわれぬ不安をかき立て、不安定な(解説の言葉を借りれば不穏な)気持ちにさせるものです。

同時に収録されている二作品からは、いんきょのおばあちゃんが認知症ではないことが結論としては読みとれますが、普段から観察し、想像力を働かせた家族は、彼女が認知症であるという結論を導きます。この人間の観察力や想像力は、厄介なもので、間違えることもあります。通常であれば、他人との交流が多角的な観点を生み、修正されていくものですから、問題となることは必ずしも多くありません。つまり、暴露の過程を経験したのち、会話によって修正されるために感情を付加され、無垢なまま終わることは少ない。それにも関わらず、本作ではやはり感情を排除した出来事の描写がメインであるからこそ、不穏な状態が前面に照らし出されます。本来不穏な人間社会ーーただしこれを実感することはないから背面に控えているものーーをまざまざと見せつけられる読書体験だと感じました。

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