『コンビニ人間』村田沙耶香

昨日、夜にこちらも読了しました。

「普通」の人間に読んで欲しい物語です。しかし、おそらく「普通」であろう人たちの読書メーターのレビューを見てみたら、なんとも悲しくなりました。「こちら」と「あちら」の世界が交わらないことをまざまざと見せつけられた気がします。

主人公はズレてしまっている。「こちら」の人間はみんな、「治す」と表現します。普通でなければ受け入れられない、気持ち悪い、常識がない、といった困ったことになるから、と両親や妹は気にかけます。しかし主人公は自分が何をどう「治す」のかわからないし、自分がズレていることで困っているわけでもない。最初から、主人公のいる「あちら」の世界と普通とされる「こちら」の世界が平行線であることが見て取れます。

主人公は「こちら」の世界にいるように振舞うことで愛する両親や妹が安心するのを見て、「こちら」のマニュアルを自分なりに蓄積してみた。しかし、そのマニュアル通りにしか行動できないのがまた「あちら」の住人であることを醸し出してしまうことで、「こちら」の人間からは忌避されてしまう…。

もう一人、主人公が飼い始めた男性について、読書メーターでは「こんなやつは嫌だ」という意見が目立ったように見えたのですが、彼は「こちら」の人間です。「あちら」と「こちら」は平行なので交わることはない。だからそこに接点がないのだから怒りや喜びなどの感情も起こりえない。しかしこの白羽は自分の置かれた状況に対して徹底的に感情を露わにして反発する。「こちら」の世界にいながら、「こちら」の世界のルールも理解しながら、その行動ができない。能力が欠けているのか、意欲が欠けているのか、そういった理由は抜きにして、「レールから外れてしまった」。「こちら」の世界はレールから外れてしまうと復帰が難しい。なぜなら、みんな「レールの上」を行っているから救い上げる術がない。

読書メーターで、白羽について「こんなやつは嫌だ」という感想はすなわち、社会的弱者やレールから外れてしまった人間を、蔑み、忌み嫌う目そのものです。だから私はこの物語を読み終わった瞬間、「普通」の人がその目を持っていることに気付いてほしかった。

主人公の古倉は問題ではないのです。古倉は自分を問題だと思っていない。「普通」のマニュアルを「こちら」に適応すべく作った。それを奇異の目で侵犯し、晒上げるのは「こちら」の人間のエゴです。多数派の暴力です。しかし彼女の場合は、「あちら」の住人だからそもそも「こちら」のルールを意に介さない。その暴力を受け流してしまう。白羽は、「こちら」にいるのに、「レール」から外れたから「あちら」へと排除されようとしている。でも彼はそもそも「こちら」の人間だからいくら「普通」の人たちが蓋をし、追い払ったと思ったところで、白羽は自分自身を「あちら」だと認識し得ないのです。それが彼の葛藤と妬みを生む。そこで「あちら」に行けない彼が、自身の姿を消すことを望んでもそれを許さないのは「こちら」の人間です。これもまた多数派の暴力です。平たい言葉で言えば、同調圧力でしょう。

「普通」の人たちも多かれ少なかれズレてはいる。そのズレがあまりに大きくなった時、排除しようとしたり、奇異の目で振り回しているのは人間を、生活を、蹂躙していることです。それにすら気づかない「普通」に警鐘を鳴らす作品だったと思います。だからこの物語に共感できるとか、気持ち悪いとかそんな感想を抱いていることにこそ、考察の目が向けられるべきでしょう。しかしそれは起こるはずがありません。なぜなら「普通」の人たちは、その感情をすぐに排除するから…。

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