月別アーカイブ: 2019年11月

『メモの魔力』前田裕二

少し前に読了しました。話題書なのは知っていたのですが、ノート術・メモ術は読んだだけで実践しないのであまり買ってもなあ…と思っていたところ、古本屋で格安で見かけ、気づいたらレジに並んでいました。
前の持ち主の方はドッグイヤーをしていたので、かなり読んだみたいです。おかげさまで安く読めました。

さて、ガイドの準備・及び通訳に絞ってお話をしようかと思います。自戒も込めて。①人の話を聞いた瞬間のメモと、②ガイディング内容を広げるためのメモに関して、です。通訳中の略記号を用いたノートテイキングは通訳の必須スキルで、通訳のクオリティを左右します。しかしながら私は訓練を受けていないので、とても苦労しています。これに関してはまたの機会に。

①人の話を聞いた瞬間のメモ
誰かの話を聞いたときに一言一句聞き取り、書き取るというのは至難の業です。日本語のニュースをリピーティングしてみればすぐにわかることですが、助詞や些末な部分は再現がかなり難しい。そしてすぐに頭から抜けていく。頭から抜けていく情報こそ、その話者のおもしろい部分であことも多く、私は授業・講座時の雑談や板書以外のお話も気合を入れて全て書き取るということをやっています(した)。これには緑色のペンを使っています(した)。最近は女子らしいみためを目指してピンクに変えました(笑)

②ガイディング内容を広げるためのメモ
聞いた内容を再生産する必要があり、最初のうちは①をなぞっていけばいいのですが、他のアイディアを結び付けていくときに先ほど取ったノートにどんどん単語・短文で書き込んでいます。これは青色のペン。最近は講座や授業の機会がないので、書籍から書き留めていたことにどんどん追加していく形です。

最近はめっきり人の話を聞く機会が減り、書くことが減ってしまいました。反省です。『メモの魔力』を読んで思ったのは、記録と整理と、再生産のプロセスが大事だということ。そしてその方法論はどうでもよくて、自分の中で整理できていればいいということです。記録は黒ペンと赤ペンを基調に、枝葉末節は青、整理しながら緑で書き込んでいくというのが、振り返って私のやり方のようです。

よく言われるのが、スクリプトなしでよく突飛な質問に対応できますね、ということですが、頭の中で話題を飛ばす練習をしていれば、話題と質問の関連をつかむことが容易になり、確かな英語力さえあればいくらでも話せるので問題ないということでしょう。メモを頭で展開しているようなものなのかもしれません。

むしろ私の場合、そして多くの先輩方の話では、スクリプトを作ってしまうとそれ通りにいかなかったときや、話題の順番を入れ替えた方がいいときに苦労します。要は慣れが肝心と言ってしまえば味気ないですが、お客様の関心に沿って様々な引出しを開けられるのは気持ちがいいことです。

最近インプットが疎かになっている気と、記憶が曖昧になりつつある気しかしないので、もっと書き起こすようにしなければと反省しました。

『パンと麺と日本人』

古本フェアで装丁が可愛らしくて手に取った本です。

「日本人」と冠がついているものの、日本人だけに焦点を当てたわけではなく、西洋との比較、むしろ西洋の小麦事情の方がウェイトが大きかったような気がします。

米と小麦の決定的な違いから、小麦を食糧とするまでの涙ぐましい人類の知恵についてはよくわかりました。

ひとつ、海外のお客様へのガイディングに活かすとすれば、「米文化」と「小麦文化」の対比は非常におもしろいものとなるかと思います。案外、日本人は毎食米でも構わないことを知らなかったり、(ほぼ)全てのおかずが米を美味しく食べるものであったりすることを知らない方もいます。それでありながら同時に、パン食が盛んでもあることを知らないお客様も多くいらっしゃいます。ただパンも普通に食べるのだという事実を述べるだけではなくて、明治維新後、そして戦後どのようにパン食が日本人に受け入れられ、今日に至っているかをお伝えするうのは非常に丁寧かつ説得力のある解説となるでしょう。

簡単にまとめておくと、小麦はそのまま粒を食用とするには制約が大きい。一方で米はそのままでも食用に耐えうることから、小麦は粉砕しする方向へと進んだということです。したがって、粉を食用するわけですが、そのまま食べるのは味気ないし何より効率が悪い。そこで煮たり焼いたりする知恵を経て、発酵によるパンの発明へとつながった。
日本においては小麦は米の代替でしかなかったこと、それでありながら明治維新後においては西洋諸国に肩を並べるべくハイカラなものとして導入されたのでした。戦後においては米不足を解消するべく、GHQの援助も大いに影響したでしょう。どこか高級食材であったパンは、給食での導入も相まって経て、今や食卓でも違和感なく受け入れられるに至った、とのことでした。
…参照せずに記憶だけで書いていますが、こう書くとなんだか小麦粉のように味気ないものになってしまいました。

本書でひとつだけ気になったのは、「たぶん」「だろう」「かもしれない」が多かったことでしょうか…。おいおい、そこは正確に知りたいぞ、と思ってしまったのでした。

『生き物の死にざま』稲垣栄洋

書店でプッシュされていたので見かけ、先に読んだ『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか』がおもしろかったよなあと思っていたら、気が付いたらレジでお会計をしていました。



本書の特徴は昆虫や動物など、生き物がいかに死ぬか、いかに世代をつなぐか、という点においてまとめられていること。「死にざま」をテーマにしている分、どことなく仏教の香りがあった気がします。

自分の役割を知り(もしくは知らずとも)それに終始するのみという生きざまは、目の前にある事柄を精いっぱいこなしていくことが明日へつながるという先日の「さようなら」の精神であるなあと感じさせられました。

直接すぐにガイディングに活かすのは少し難しいかと思いますが、頭に入れておけばいつかどこかで必ず役に立つだろうと確信できる一冊です。一つ一つのエピソードが短いうえ、文字が大きいので(意外に重要ですよね!) 気負わずに読めるかと思います。そのため、ちょこちょこと読み進めることをお勧めします。

それにしても、稲垣氏の筆致が好みです。このエッセイ風の書き方はついつい先を読みたくなります。そして最後がいつも儚い。じんわりして終わるので、疲れているときにも良いのかもしれません。お坊さんの説話を聞くのと同じような効果が得られそうです。

映画Jokerの題名をめぐる考察

年々過激になるとしてハロウィンが話題になりますが、今年は大ヒット映画Jokerのコスプレが各地で見られたといいます。一大センセーションを巻き起こしている本作について知人・友人とも話すことができたので、ここに自分の考えをまとめておきます。

以下、ネタばれありますのでご注意を。

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日本人にとってクラウンはあまり馴染みがないからか、翻訳はピエロになっていたと記憶している(違っていたらすみません)。しかしながらピエロとクラウンはどちらも道化として扱われるものの、別物である。ここでは主人公Arthurがピエロではなくクラウンであった点について固執し、題名Jokerを巡って考察する。

道化とはその滑稽な言動によって人々を楽しませるものであり、その中でもピエロは悲しみを背負った存在である。ピエロの特徴は目の下の涙のマークとされ、狂気の笑顔にどこまでも悲しみを隠している。それはピエロとされた人間が身体的障害もしくは知的障害を負っていたことが多く、彼らが生きる様そのものが笑いの対象とされたことに起因するとされる。(The Greatest ShowmanやFlowers for Algernonについて言及したくなるがこれらはまたの機会に…。) 本作に登場するのはクラウンである。メイクが流れ落ち、あたかも涙が流れているような演出が見られたが、それはピエロとは異質であると私は考える。

メイクは本来の自分自身を繕い、隠す、仮面としての役割を担うが、能面や舞踏マスクと決定的に違うのは、それがこする、ぬぐうなどの物理的な力や、汗や涙によって変化することであろう。顔を触りたくなるのは、例えばかゆいという欲求が生じたからであろうし、汗や涙も生理的な現象であるため制御するのは簡単ではない。そのため、隠したはずの素の自分が、その仮面を乗り越えて表出してしまうことがある。クラウンとして過ごしている主人公Arthurの感情が高ぶったときに、メイクが変化し強烈な感情を印象付ける。

Arthurは悲しみを背負った存在として人に笑いを提供する役割には甘んじていない。彼はクラウンを選択していた。メイクに涙を加えることはないし、涙のように流れたアイメイクを必ずそのままにはしない。現状を変えようとコメディアンになる夢を捨てきれずにノートを大事にしているし、ジョークを書き留めている。それは障害に起因するが故に変えようのない現在に絶望しながらも、あるいは絶望の何たるかを知ることのないまま物心ついたときから笑い者としての役割を与えられ、生を義務付けられたピエロとは大きく違う。変えようのない現在はそのまま改善の希望がない未来へと繋がる。悲しみを一粒の涙に秘めることなく、変わらぬ日々を是とせず、彼は人をJokeで勇気づけるjoker(ジョークを言う人、コメディアン)になる夢を捨てなかった。ジョークを披露する瞬間を待っていた。それがknock knockの途端その夢を馬鹿にされ、自分の存在自体が嘲りの対象だという動かしがたい事実をまざまざと突き付けられたとき、彼はjoker(無能なのろま、迷惑な人間)を自覚する。

希望を打ち砕かれた人間が抱いた復讐心は攻撃先を探し求める。その憎しみにGothamの街が呼応した。一度目の銃殺は意図したものではなく自衛であったように演出され、その後彼は自身が犯人である事実を隠し続ける。市長Thomasへの接触も現状を好転させる希望を見出そうとしたからだと考えられるであろう。しかしテレビに出演し、嘲笑われた後、話し始める殺人の事実は攻撃ののろしであり、彼はjoker(切り札、ジョーカー)として英雄の座を用意され街に迎え入れられた。

Gothamの街は持てる者と持たざる者が存在し、反発が描き出される。もちろんこの「持つ」の目的語は「富」であり、貧富が簡単に覆ることはない。ただしこれが一種のゲームだとしたら、一つだけ戦況を変える方法があるのではないか。それこそがjocker(切り札、ジョーカー)の存在であり、最後の最後までこのカードがどちらにあるのかはわからない。ジョーカーたるArthurはテレビの出演によって輝かしい世界へと足を踏み入れた。ほぼ持てる者の勝利が決まったかと思われたとき、彼らは自らの軽率な嘲笑によって―—まるで思慮浅くカードを選択したかのように――このジョーカーを失う。富を持てる者と持たざる者は、ジョーカーのカードを持たざる者と持てる者という構図へと転じるのだ。

その後も、パトカーでの護送、奪回、精神病院への収容やその脱走が続く。これは一人間のやり取りだとする以上に、富を持てる者と持たざる者のジョーカーの奪い合いである。このゲームは切り札となるカードが存在する限り終了することはない。すなわち、両者の戦いは簡単には終わらないのである。

そして物語はエンディングを迎える。切り札として新たに存在価値を得たArthurはもはやクラウンのメイクを手放すことはないし、涙を流さない。いや、流せないのだろう。それはまるで、契約書に潜んだ完璧なjoker(偽装された条項)のように、本来のArthurを欺瞞で覆いつくし、決して元の正しい姿を現すことのない完成された狂気の仮面となる。

かくしてJokerは社会に産み落とされた。それは心無い言葉によって青年が負う絶望でもあり、社会のお荷物として排除され侮辱される者の屈辱でもあり、望むと望まざるに関わらず与えられた役割に蹂躙され、その役割に身を染め仮面を手放せない役割社会の申し子でもあった。こうしてHappyと呼ばれたArthurは、皮肉にも自分自身を失うことで現代社会に居場所を得た。それは本人にとって悲劇ではなく、希求した結末であり喜劇 (“I used to think that my life was a tragedy. Now I realize it’s a comedy.”) であった。

『なぜ仏像はハスの花の上に座っているのか 仏教と植物の切っても切れない66の関係』稲垣栄洋

あまりまとまって読書の時間が取れない繁忙期にこそおすすめできる一冊がこちら。一つ一つの植物についての解説が短くよくまとまっていて、エッセイ風になっています。軽快な調子で書かれているので、1時間半ほどで読了できました。
大先輩が一度言及し、その後再読されていたのを目の当たりにして、私も手を伸ばしました。


仏教にかかわりの深い植物についての解説という切り口で、これほど多くまとまっているのは一読するだけでも多くのトリビアを仕入れられます。その上で、それぞれの花の季節が来たらその項を再読するといいかと思います。

一つ、これは完全に私の興味関心の方向ゆえですが、大変面白かったのが最後に述べられた「雑草」という言葉についてです。

雑草とハーブという二項対立に対して、元来雑草にあたる言葉を持たなかった日本語からは西洋と日本の精神性の違いがくみ取れそうです。役に立つ立たない以前にただ存在しているという事実が厳然とあること、それを人間がうまく利用するか失敗するかでしかなく、もともと雑草たるべくして存在するわけではなく、ハーブたるべく存在するのではない…といった指摘はいかにも仏教説話らしく、本書を締めるのに印象的でした。

ただし一つひっかかったのは、ハーブ(herb)の語源はherbaというラテン語で、これ自体には「薬草」「役に立つ植物」という意味はないはずです。したがって、「野草」「植物」といった意味から、中世以降、時を経るにしたがって「役に立つもの」と再定義されたのではないかと思います。どちらかというと、役に立つものだけを取り出してハーブという名称をあてている現代社会の方が異質と言えるのかもしれません。

二元論的にありとあらゆるものを良いのか悪いのか?という物の捉え方をされるお客様に、これは良くもあり悪くもある、という考え方の面白みをうまく伝えられるガイドでありたいと改めて思いました。Yes or No ではなくてYes and Noを理論立てて伝えられること。つまりは多面的な物ごとの捉え方を押しつけがましくなく提供できる状態であること。そのためには自分自身の視点を常に動かす訓練をしておかなければと感じました。