月別アーカイブ: 2019年8月

『西洋人の「無神論」日本人の「無宗教」』

随分前に読んで、記録を残していなかった一冊をご紹介します。
通訳案内士として活動すると、避けられないのが宗教の話。西洋人の感覚から大きく外れる日本人の宗教観をご案内するのは、ガイドの醍醐味だと感じます。ただし、それが難しいと思う後輩さんたちも多いようで、どのようにご紹介すればいいのか、とよく聞かれていました。そういった方は本書の第三章を読まれると良いかと思います。

日本人の二本柱として、神道と仏教のご紹介は避けられません。ただ、いきなり神道と仏教についてご説明してもややこしい話かもしれません。そもそも、考え方のベースに一神教があることを考えると、神道や仏教はあれもこれも大事、という言い方が心に響くかどうか、というのは難しい。一神教的な知識と歩み寄りがないままに、説明することができないので、事前に勉強しておくべきでしょう。

現代の西洋社会の現状をふんだんに取り入れた本書は最初の一冊として手頃かと思います。ただし、十分に詳しい人にとってはあまり面白いところがないのかもしれません。十分に詳しいかどうかを不安に思う場合は、「スパゲッティモンスター教」という単語でピンと来るかどうかで判断してください。

お盆の行事と火/水の分類

出先で手元に資料もなく、確認できない中、ネットで論文を探して読んでいたらだんだん混乱してきた。灯籠流しと送り火では性質が異なる気がするが、それをうまく説明できない。

民俗学者の八木氏は水/火で京都の祭事を分類していて、ちょうどお盆が切り替わりの時期にあたる。雨季の河川の氾濫/秋の五穀豊穣という日本の気候に沿って、水のまつりから火のまつりへ、すなわち荒ぶる神を鎮める祭りから、弱まる太陽の力を鼓舞する祭りへという推移をたどるのが、海外の方へのご案内の時に行事の意味合いがすごくわかりやすいので、専ら紹介していた。
加えて、私はそれを招かれざる神仏/招く神仏という対比としていた。

そこでちょうど16日は、広沢池では送り火と灯篭流しが同時に見れるから、水/火の区分けの象徴だなと思って行ってみた。

京都において水に流すという行為は、洛外へ出て大阪へと流れ海へ出ること=はるか彼方へ向かうこと≒あの世へ向かうこと、ということ。おそらく、他の灯籠流しをやってる地域も川沿いや海沿いが多い(印象な)ので似通った発想であの世へ送っていることは間違いない。そこで私はかつて灯籠流しの意味合いは、水のまつり=招かれざる神仏を流すことだったのではないかと思い至る。

じゃあ、送り火が招く神仏を送ったのかというと、これは論文の参考資料を見ている限りではそう。1400年代の資料に「所々ノマントウロウ」(これは「燈籠」表記とは明確に区別されている)、「四面の萬灯」、「四山萬燈」と出ていて、当時の墓地計画と(裏付けには弱いが)南北朝期の資料にある記述を合わせみるに、葬地で行われたものを遠望したという。これは各家々がそれぞれ灯した火。各家々ということは先祖なので、招く神仏側。しかしここに矛盾が出る。

この高地での灯火が以降集団での送り火へ繋がっていくもの。で、さっき同じ論文をもう一度読んだら、聖霊迎えは各家で行うのに対して、送りは地域を挙げて行うことについて、招かれざる死霊を送るのは地域共同体による。招かれなくても来る霊を丁重にお送りするところに儀礼が発達した(抄訳)とある。つまり、送り火の私の解釈が間違えている。

共同体が担うことになった送り火の方こそ、招かれざる神仏を送ったことになる。え、みんな招かれざる神仏やん。おかしいおかしい。ほんなら、灯籠流しの方が、ご先祖さんの手助けってくらいで、邪気払いまで言えないか?……。あれ。これ水のまつりでええんか?火灯してるから火のまつりか?ちょっと待ってもしかして八木氏の著書で分類されてるんちゃうか。無理。もう無理。ここで考えるのは無理無理無理。

ってなりました。

今読み返して、やばいと思ったのは、身分・居住地を考えていなかった。集団化した後の送り火は洛中の人間が行ったとは到底思えない。

ちょっとやはりうまく整理できない。誰かの助けを借りよう。

追記:

手元の八木氏の著書を確認した限りでは、やはり五山の送り火を先祖(招いた側)を送るとするのが自然か。

「集団で送らねば怖い」という心理が働いて風流化したのではなくて、村上氏が終盤で述べている、「見られる」ことを意識したイベントであるというところの記述と照らすとやはり私の引っかかりはその通りで、ここに関しては矛盾という指摘にとどまる。

そもそもこの二つを同日に開催するところから調べないといけないのかもしれない。観光の問題も関わってきそう。これは踏み入れるべきではなさそうな気もするが…

『琥珀のまたたき』小川洋子

現実生活があまりに余裕がなく、更新が滞ってしまいました。

最近は読後の所感しか挙げていませんので、つまりは全く読書をする余裕がなかったということ。良くないですね。

ただ、やっとのことで読んだ本書は、通常運転の際に読めればせかせかした生活から引きはがす力があったように思いますが、この近頃はそれ以上に私の気力がもたず、一章読み進めるごとに手と目を休め、次の日に なり、を繰り返しました。

小川洋子の作品は「静謐」という言葉が良く似合いますね。この作品も例に漏れず、とても静かなものでした。

『海』や『寡黙な死骸/みだらな弔い』などでは、グロテスクさが引き延ばされた感じを受けた記憶があるのですが、本書はそれが目立たないような気がしました。それよりも、もっと些細な小さな誰にも気づかれない生活を大事にしている感じでした。まさに主人公たちが(何の変哲もない)石を自分たちだと信じて大事にするように。