月別アーカイブ: 2019年7月

『時間術大全 人生が本当に変わる「87の時間ワザ」』

本屋で平積みになっていた本書を読了しました。

生産効率の改善は世間で叫ばれて久しく、昨今の主流は仕事の生産性をあげるだけでなく、どのように充実感を得るか、それがいかに自分の生活の満足度を上げるか、ということだと感じます。

ただし、周りを見ればまだまだ、仕事術、睡眠ハック、メール術、ノート術、などばらばらなので、本書の最終目標が「よりよい生活を送ること」だと明言し、それぞれのハックを集約する試みは評価できます。従って、自身の生活に不満がある場合や、仕事方法に疑問がある場合、本書をまずおすすめできます。その後、本書をハブとして、知識を深めていくという選択が今後の指針になり得るのではないでしょうか。

Twitterを見ればわかりますが、朝活や語学勉強垢で高い成果を出している方達は、朝の宣言、夜の振り返りというのを息をするようにやっています。それが本書の指すハイライトとチューニングであり、それらに向けて各々がチャージ・レーザーを試みているのでしょう。

一本明快な筋を作り出しているので、何か生活を改善したいと迷っている人にはお勧めできますし、人気がでる書籍になるのもわかる気がします。

『あひる』今村夏子

3日前にあたる7月17日に芥川賞の発表があり、今村夏子さんが受賞されました。おめでとうございます。

受賞作の『むらさきのスカートの女』は手元になく、未読なのですが、カドフェスの一冊、本書を入手し読了しました。

私はアヒルの大ファンです。あの愛くるしいフォルム、目をひく白さ、つぶらな瞳…。たまりません。幼少期、近くにアヒルを飼っている農家さんがいた関係で、よくうちでは「今日はアヒル見に行く?」「アヒル見に行きたい」といった会話が繰り広げられていました。

さて、読了後真っ先に頭に思い浮かんだのは、「人間の頭の中をそのまま持ってきたみたいだな」ということでした。

人間は、何か出来事を受容し、反芻することで喜怒哀楽を獲得します。出来事を自分が体験した後、人に話すというのも受容のプロセスの一つで、本来の無垢の体験からは離れ、感情的になってしまいがちです。それとは全く逆のありようを作家は描きます。

これはのりたまにはなかった特徴だ。
おかしい。
これはのりたまじゃない。
わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。

「おかしい」というのには喜怒哀楽の感情はありません。「おかしい」と思ったからどうなったのか、怒ったのか、残念に思ったのか、それでもいいと思ったのか、そういった結末が一切なく、話は進んでいきます。

想像力、ひいては観察力のある人間の前では、隠そうとしたことは暴かれてしまいます。その暴露の過程は、社会の中で起こっているのであれば感情を交えるものです。今村夏子の描き方には、当然付け加えられるべき感情が欠落してる。だから頭の中をそのまま持ってきたようだ、と感じたのでした。

だれしも体験している生の体験ですが、時間が経ったり、人間社会で生き、人と関わって会話をしていく以上、感情を絡めた話や経験となるのが普通です。であるならば、この無垢の体験は前面に出てくることはない。それにも関わらず、この作家の描き方は、感情を排除した、淡々とした切り口であるからこそ、多くの人が、例えば解説にあるように、不穏だと感じるのではないでしょうか。普段意識しないものを意識させられる体験というのはえもいわれぬ不安をかき立て、不安定な(解説の言葉を借りれば不穏な)気持ちにさせるものです。

同時に収録されている二作品からは、いんきょのおばあちゃんが認知症ではないことが結論としては読みとれますが、普段から観察し、想像力を働かせた家族は、彼女が認知症であるという結論を導きます。この人間の観察力や想像力は、厄介なもので、間違えることもあります。通常であれば、他人との交流が多角的な観点を生み、修正されていくものですから、問題となることは必ずしも多くありません。つまり、暴露の過程を経験したのち、会話によって修正されるために感情を付加され、無垢なまま終わることは少ない。それにも関わらず、本作ではやはり感情を排除した出来事の描写がメインであるからこそ、不穏な状態が前面に照らし出されます。本来不穏な人間社会ーーただしこれを実感することはないから背面に控えているものーーをまざまざと見せつけられる読書体験だと感じました。

『コンビニ人間』村田沙耶香

昨日、夜にこちらも読了しました。

「普通」の人間に読んで欲しい物語です。しかし、おそらく「普通」であろう人たちの読書メーターのレビューを見てみたら、なんとも悲しくなりました。「こちら」と「あちら」の世界が交わらないことをまざまざと見せつけられた気がします。

主人公はズレてしまっている。「こちら」の人間はみんな、「治す」と表現します。普通でなければ受け入れられない、気持ち悪い、常識がない、といった困ったことになるから、と両親や妹は気にかけます。しかし主人公は自分が何をどう「治す」のかわからないし、自分がズレていることで困っているわけでもない。最初から、主人公のいる「あちら」の世界と普通とされる「こちら」の世界が平行線であることが見て取れます。

主人公は「こちら」の世界にいるように振舞うことで愛する両親や妹が安心するのを見て、「こちら」のマニュアルを自分なりに蓄積してみた。しかし、そのマニュアル通りにしか行動できないのがまた「あちら」の住人であることを醸し出してしまうことで、「こちら」の人間からは忌避されてしまう…。

もう一人、主人公が飼い始めた男性について、読書メーターでは「こんなやつは嫌だ」という意見が目立ったように見えたのですが、彼は「こちら」の人間です。「あちら」と「こちら」は平行なので交わることはない。だからそこに接点がないのだから怒りや喜びなどの感情も起こりえない。しかしこの白羽は自分の置かれた状況に対して徹底的に感情を露わにして反発する。「こちら」の世界にいながら、「こちら」の世界のルールも理解しながら、その行動ができない。能力が欠けているのか、意欲が欠けているのか、そういった理由は抜きにして、「レールから外れてしまった」。「こちら」の世界はレールから外れてしまうと復帰が難しい。なぜなら、みんな「レールの上」を行っているから救い上げる術がない。

読書メーターで、白羽について「こんなやつは嫌だ」という感想はすなわち、社会的弱者やレールから外れてしまった人間を、蔑み、忌み嫌う目そのものです。だから私はこの物語を読み終わった瞬間、「普通」の人がその目を持っていることに気付いてほしかった。

主人公の古倉は問題ではないのです。古倉は自分を問題だと思っていない。「普通」のマニュアルを「こちら」に適応すべく作った。それを奇異の目で侵犯し、晒上げるのは「こちら」の人間のエゴです。多数派の暴力です。しかし彼女の場合は、「あちら」の住人だからそもそも「こちら」のルールを意に介さない。その暴力を受け流してしまう。白羽は、「こちら」にいるのに、「レール」から外れたから「あちら」へと排除されようとしている。でも彼はそもそも「こちら」の人間だからいくら「普通」の人たちが蓋をし、追い払ったと思ったところで、白羽は自分自身を「あちら」だと認識し得ないのです。それが彼の葛藤と妬みを生む。そこで「あちら」に行けない彼が、自身の姿を消すことを望んでもそれを許さないのは「こちら」の人間です。これもまた多数派の暴力です。平たい言葉で言えば、同調圧力でしょう。

「普通」の人たちも多かれ少なかれズレてはいる。そのズレがあまりに大きくなった時、排除しようとしたり、奇異の目で振り回しているのは人間を、生活を、蹂躙していることです。それにすら気づかない「普通」に警鐘を鳴らす作品だったと思います。だからこの物語に共感できるとか、気持ち悪いとかそんな感想を抱いていることにこそ、考察の目が向けられるべきでしょう。しかしそれは起こるはずがありません。なぜなら「普通」の人たちは、その感情をすぐに排除するから…。

『さようならオレンジ』岩城けい

数年前、途中まで読んで、ほったらかしていた本書を最初から読み直し、読了しました。

素晴らしい小説だと感じました。私自身通訳案内士として言葉を扱う者です。

そして、自分の生まれ育った日本という国にいながら、英語を使っている。その大多数の場合において、日本におけるマジョリティであるはずの、日本生まれ日本育ち、ルックスも日本人という自分が、英語ネイティブに囲まれて、不自由な英語を扱うマイノリティに転ずるという、普通に考えるとあり得ない体験を日常とします。

ガイドになりたての頃は今よりはるかに英語も拙く、それだけでバカにされたり、見くびられたりすることがありました。今は見た目が若いので、「学生?」と聞かれることはあっても、英語という観点で排除されることはまずありません。言語ができる、少なくとも相手に太刀打ちできるというのは、大げさではなく、人間として生きるということです。

この小説の中で、とても激しく、強く、私を打った言葉がありました。

オリーブとサリマがスーパーで再開するシーン。そこで、ハリネズミが孤独を経験したことに思いを馳せ、涙するオリーブに寄り添い、「その調子じゃあ、あんたこそ、長いあいだひとりでつらかっただろうに」とささやきかかけます。その二人を見た夫が励ますように、「友達なんだろう?」というシーンです。

普通に読めば、「ひとりぼっち」という概念に対応して「友達」という言葉を持ち出し、「ひとりじゃないだろ」というニュアンスの温かい言葉なのだと思います。しかし、私はここでどうしても「友達」と”friend”のギャップを思わずにはいられませんでした。

日本語の「友達」と英語の”friend”には大きな隔たりがあると実感しています。もちろん、私は海外で英語を学んでいないので、詳しいニュアンスや感覚を身に付けているわけではありませんが、自分が学んだ範囲では大きな差があると確信しています。日本語の「友達」の方が狭い、friendは「知り合い」に近いと思っています。この夫の言葉を目にしたとき、即座に「友達」が”friend”に変換されました。

するとどうでしょうか。オリーブとサリマは確かに深いところで繋がっている「友達」ではあるけれども、それは夫からすると”friend”という数ある一人のような印象を受けるのです。

思い悩むことがあるとき、「誰かに相談すればいいのに」と軽々しく言っているのに似ています。「誰か」なんていないのです。だから悩むのです。その悩みは確かな友達でないと言えないのです。でも、周りから見ると、私にとって「友達」なのか「知り合い」なのかはわからない。唯一無二の存在を、多に還元してしまう「誰か」という言葉。それに近い”friend”という言葉。この物語では夫はその言葉しか持ち得ない。なぜなら英語ネイティブだから。確かにsoul mateとかclose friendとか、言おうと思えば言えますが、あくまで基準は”friend”という、「友達」よりもっと大きな概念に生きている人なのです。

この夫は本来friendという言葉でしか表現できない世界にいるから、「友達」とは言わない。「知り合い」と「友達」が一緒の世界に生きている。そんな思考が一瞬にして働き、この発言の「友達」はあくまでも”friend”なのだ、と感じました。しかし、二人を目の前にした夫は、”friend”という言葉の枠を超えていることがわかっている、だから手を添えたのでしょう。この行動の温かみこそ、人と人を、差異の元において繋ぐことができるのだと強く信じます。

人間の相互理解は想像によってしかなし得ない、なぜなら言語が、つまり自分の生きる世界が意識を規定してしまうから。言葉を手に入れるということは、新しい基準を手に入れること。新しい生きる術を手に入れること。新しい生活を手に入れること。新しい世界を手に入れること。それをしないで同様のことを得ようと思えば、何か強烈なものを目の当たりにするしかなく、この物語で何か新しいものを得たのは言葉を得た女性たちだけではなくて、彼女のそばにいた夫もでしょう。

自身の仕事に翻って考えてみるに、観光の際、自分の世界をそのまま地域へ持ち込むお客様は確かにいらっしゃいました。こちらの世界に寄り添うことがないまま、自分たちのルール・観光客だから・休日だからを押し通すというのは、私が無視されているような気分になって、ガイドをしていて楽しいと感じませんでした。それは私の・私たちの世界に対する敬意のなさでもありました。私はそのような方をガイドとしてご案内する可能性を減らしたかった。だからこそ、日本に住む人を大事にしたいと思うのかもしれません。新しい世界の獲得に苦心している人の一助になりたい。それは日本人であろうが、外国人であろうが、差はありません。改めて、自分の辞職の判断、現職への覚悟に襟を正す思いです。

至極どうでもいいことですけれども、「新しい世界」と言えばA Whole New World~Aladdin~ですね。Broadway版のこの歌、大好きです。

ヨガとマインドフルネスを体験した話

本日お誘いをいただいて、ヨガとマインドフルネスを体験してきました。

講師はReebokONEアンバサダーの松川明広さんでした。

風邪でふらっふらなのですが、楽しいひと時となりました。

セッション中、はっとする一言がありました。

「自分を気持ちの良いところへ導いていく」という一言。

私は客観的にみると向上心とか、ストイックさとか、そういうものの塊で生きている人間ですが、疲れてしまって全てゼロになる、というのをよくやってしまいます。客観的に見ると、というのは自分の感覚ではフル回転が当然だから、ゼロになってしまったときにはすごくストレスが溜まるし、自分の思い通りに動かない状態にフラストレーションを感じ、「さぼっている」と感じる以上、ストイックだと言い切ることができないからです。

こんな生き方はどう考えても苦しいもので、幸せを実感できない生き方をしている自信しかないので、幸せとは何かという問題に対面する気はあまりないのですが、苦しい以上どうにかしないといけないと感じることもあります。その中で、「気持ちの良いところ」というのは一つの指針になり得ると直感したのでした。

もう一つ。自身の仕事について思ったこと。

マインドフルな状態というのは日常の些細なところに感じられるはずであるという考えが、松川さんの根底にありました。どんな些細なことにも感動や実感をできる、「今ここ」を体験する最前線が、旅行という非日常でしょう。観光客を今まで相手にしていた経験から、旅行中どんな些細なことにも感動を感じられるというのは、マインドフルな状態になりやすいからだという気付きを得ました。とすれば、お客様の満足度を高めようと思うと、説明としてのガイディングではなく、「今ここ」を活かしたガイディングでなければならない。ありきたりな言葉でいえば、そのお客様の様子を観察し、そのお客様ならではのお話を提供していくようなガイディングでなければ、充実感を生めないのだと改めて感じました。

やはりガイドは人として勝負をかけていくもの。そのときどきで全力でお客様と向き合うからこそ、お客様にとって、ひいてはガイドにとっても意味のある時間を生み出すことなる、そのための努力に終始しなければならないという自分の信念が揺らぐことはなさそうです。