月別アーカイブ: 2019年6月

『地獄めぐり』①

近頃小説ばかりだったので、そろそろガイディングに繋がるものを…と思いながら本屋をぶらぶらしていたときに見つけました。2019/06/20第一刷発行とのことで、新しい本です。

今は2章まで読みました。疲れていて全然頭に入って来ず、ナメクジよりは早いけど、ヤドカリくらいの速度なのですが、面白そうです。

地獄になぜ人は惹かれるのか、というところから出発しています。

ちょっと気力がなさ過ぎて、途切れ途切れになってしまっているので読み間違えていないことを祈るばかりですが、我々人間のもつ抑圧が、地獄を魅力的なものに仕立て上げるということです。それから、地獄へ向かう道の二面性にも触れていました。例えば、前者については生と性の誘惑、後者については三途の川は死後の世界へ向かう道でありながら逢瀬の場でもあること、脱衣婆は恐ろしい存在でありながら山の神として福をもたらすことが挙げられていました。

人間が多面的であることを踏まえ、地獄が人間の作り出した世界であることを鑑みるに、地獄そのものが二面性を獲得するのは不思議ではないのかもしれません。一点気になったのは西洋の地獄がどのようであるのか、ということです。

あくまでこれは私の仮説で、全く確かな根拠はないのですが、輪廻があるわけではないこと、及び二元論の発想から、地獄=悪、天国=善と美しく分離され、地獄に誘惑がある可能性はないのではないでしょうか。日本、ひいては仏教国では、死は輪廻の一部でしかなかったこと、前世が来世を規定するということが多種多様な地獄を作り出したように思います。それゆえ説話や絵巻で多彩な想像力を働かせて地獄が描かれることが多いのかもしれません。そこには煩悩に負けてはならないことを説く目的で、地獄の恐ろしさを伝えんとしたがために、かえって興味を引き立てたという働きがあったはずです。「絶対に見たらだめよ」と言われると見たくなるのに似ています。西洋イコンが地獄を強調しているのはあまり想像がつきません。

ただしダンテ『神曲』においては数種類の地獄が定義されていたはずです。このあたりについては折を見てリサーチしてみます。

地獄めぐり②

目の前の壁を認識するお話

現在左半身の皮膚の調子がすこぶる悪く、引っかいて皮膚をめくってしまうと新しい皮膚が作られないまま、大きな怪我のようになるという意味の分からない状態です。顔、耳にひどくとても嫌になります。加えて、汗疱(だったろうもの)と相まって、手のひらがゾンビ状態です。発端は手のひらでした。前の会社の最後の最後に出現し「ストレス置き土産かー」とか呑気なことを言っていたのですが、左半身全体としてここまで長引くとうんざりします。病院行っても変わらないし。

そんな中、久々に人前で英語を使うお仕事に出かけてきました。きっとこの子皮膚大丈夫かと思われていたに違いありません。それくらい一目見て痛々しくなっています。


さて、長くなりましたが本題はここからです。会話力や流暢さは落ちたようには感じませんでした。英語の思考回路というのは確立されてしまえば消えないのではないかという仮説が1ヶ月段階では真です。その先はわかりません。おそらく単語・イディオムレベルではガタついているのかもしれません。今回の業務内容は、日本語で説明された規則を英語でお話しするというもので、通訳よりはかなり軽めのものでした。心のどこか(いや、正直、大部分だと思う)で、「自分はすごい」と思ってしまっていて、この業務を目の当たりにして「でも他の人はそんなに喋れていない」と思ってしまいました。まあ傲慢なことです。

ただし、大きな反省点があります。というか、以前からわかっていて手をつけなかった部分です。この点に関して自分を戒めながら日々過ごすことになりました。ビジネスや法律、規則の英語に精通してなさすぎるというのが以前より問題視している項目なのですが、まさにここに関わります。

本当にその表現で構わないのか?日本語のニュアンスをうまく伝えられているのか?誤解を生むことはないのか?という疑問から、この表現を単語レベルでそもそも知らないということにも出会いました。ここの改善が急務であると実感しました。

具体的に何をどうするのか、は全く目途が立たず、一時英字新聞を購読したものの、さぼり癖が勝り、続きませんでした。CNNEEも一瞬だけ通訳のため手元に用意しましたが、意志の弱さにより挫折しました。しかしながら、ここ数年思い続けていることですので、やはり避けては通れない壁なのでしょう。こういうことを思うたびに、通訳・通訳ガイドに多い(とされる)「学ぶことが好き!語学が好き!」の人ではないことを実感し、向いていないのではないかと自問自答してしまいます。

7月の一か月だけでもこの分野に関する通訳に本腰を入れてみたいものです。というか入れる。

『綿菓子』江國香織

父親からメロンを貰ったことで読みたくなり、手元になかった上に書店にも置いていなかったので、取り寄せて購入しました。

夫婦のことはわからない。愛とは何なのかわからない。そんなささやかでありながら重大な疑問を抱えた少女の視点で物語が進みます。

私がダントツで好きな一篇は「メロン」。

普段は何も言わない、少女の目からすればまるでだめな父親にしか映らない父親が、昔の約束を果たすために姉の誕生日に合わせて毎年毎年メロンを買ってくるというものです。娘からすれば、父親は不愛想で、母親は「つまらない」生活を強いられている。この父親はおそらく母にも、娘にもどのように接すればいいのかわからない。だからいつも不愛想で無言。そして自分は買ってきたメロンを食べもしないし、家族の団欒に参加することもない。でも家族はその理由をきちんと知っていて、メロンのありがたみと、どこか滑稽さを共有しているという筋書きです。

どことなく自分の父親に似ている節があって、切なくなりました。そして父と母の会話が少ないところも。私が主人公のようにそれを「つまらない」と思うところも。でも、父も母もそれぞれお互いのことを私に悪く言わないのです。正確には、こけおどしているように話しながら、どこか滑稽さを、笑いを求めてくるのです。

そんなことを思い出すと、円満な夫婦というイメージが画一的なものだということに気づきます。本人たちにしかわからないものがあるのです。「夫婦なんて、ばかみたい」とみほは言いました。彼女の両親は離婚してしまいました。あっけなく崩れるものでした。そして再婚をし、新しい父親が彼女のもとにやってきた。そんな状況を踏まえれば、一種の契約でしかない結婚によって人間の意思が縛られるなどばかばかしい、そういった思いだったのかもしれません。

では、みほの両親と主人公みのりの両親の違いは何なのでしょう。みほの両親が夫婦であるのに対して、みのりの両親は家族だったということだと私は思います。夫と妻という状態で対峙した2人の意思が永遠に寄り添うことがなくても不思議ではありません。一方、家族として、親・子供・親戚を巻き込んで関わりあうときには、いくらそれが「つまらない」ものであったとしても簡単に壊せる関係ではなくなるということでしょう。そんな守られた立場にいるみのりが食べる、メロンの甘さが際立ちます。

私の父親も無言でメロンを贈ってきました。いったいどんな思いでこれを贈ったのかというのは憶測でしかありませんが、確かにそれはとても甘いメロンで、泣きたくなったのでした。

『蝶々の纏足 風葬の教室』山田詠美

絶対に再読しなければならないけど、軽い気持ちで再読してはならないリストNo.1(そんなリストは作っていませんが)であろう一冊を再読しました。

こんなにも人間が自由に生きられないことを私に突きつけた本はなかなかないです。そしてその登場人物の少女たちの内面描写の生々しさ。怖い話ではないのに、当時中学生であった自分は女になる自分の将来を垣間見た気がして、そしてその兆しが既にあることに背筋が寒くなるような思いをしたのでした。それはもはやグロテスクですらありました。

さて、今回再読して「死ぬと決心したその時よりも、生きなくてはいけないのだと気づいた時の方が人を泣かせるだなんて。」(風葬の教室)の一文に考えさせられました。もちろん周りに生かされてきたことをひしひしと感じられる年齢になったことで、文字通りの意味も刺さりますし、小学生がこのように思っているその純朴さに、しかしながら純朴に見えて精神的に成熟しているからこそ出てくる一文に、筆者のすごさを感じます。周りの目を気にすることで逆説的に気にしないことに慣れた少女だからこそ、母親や姉の目線から自分の死後の生活を想像することができたのでしょう。当たり前のように書いていますが、周りを気にしない純真な子供はこうはなりません。つまり、小説に出てくる主人公以外の「子供」であればそうはならないに違いありません。ですからそういうことを考えると、山田詠美の描き出した10代の少女の繊細な危うさは、女性なら誰でも万人が経験しているのか?と問われると私にはわかりません。

大人と呼ばれる年齢であっても「子供」が存在することは主人公が見た世界そのままです。そして、「大人」と「子供」はどこか深い部分では分かり合えないのではないか、そんな風に感じます。語弊を恐れずにもっとざっくばらんに言ってしまえば、「頭お花畑」とよく揶揄される人たちと、私が相いれないのは経験済みです。

解説には「こういうことは女の子ならばほとんどの人が経験したことだろう。そしてあまり気に留めず忘れ去ってしまっただろう。」とあり、山田詠美の人気の理由に筆者と読者だけが少女時代の特別な秘密を共有しているような「共犯者」であるという記述がありますが、「こういうこと」とは男性の手や首筋などパーツに見惚れてしまうことであり、私の指す10代の少女の危うさは違います。周りに同化するのを拒むわけではないけれどもどうしても周囲が幼稚に見えてしまい馴染めない。そんな中で確固たる自分というものがあるわけでもなく、少し変わっているのを自覚しながらもそれを持て余してしまう。その状態にあると自分の五感と、もしかしたら第六感しか信じられませんので、容易に破滅に身を突っ込んでしまう。そんな状態を経験した人間は、この小説を苦々しく読むのではないでしょうか。少しばかり懐古の情を挟みながら。

『西洋菓子店 プティ・フール』千早茜

お菓子のように魅惑的な作品を読了しました。

ところどころに興味深いセリフがあり、印象的でした。

いきなり序盤で「菓子の魅力ってのは背徳感だからな。」というセリフを目にし、考えさせられました。

幼いころは生クリームやチョコレートが全く好きではなく、むしろ嫌いだったのですが、今やそんなことを全く思い出さずおいしくいただいています。そして周りの知人もケーキ大好きな人が多い。何か落ち込むようなことがあると、決まって「とりあえず、ケーキ食べて元気出そ」と言われるほどです。当たり前ですが、健康に良いとは思いません。そして私の場合、自分を甘やかしている感じがさらにつらい気持ちに拍車をかけます。それでも何故やめられないのか…そんなことを思ってしまいました。

登場人物はパティシエールをはじめ、どこか問題を抱える人たち。精神を病んでいるのであろう人もちらほら見受けられます。お菓子やケーキというのは、完成形です。それを求めてしまうのが不完全な人間の性なのかもしれないな、なんて思いながら読みました。その完成したすました感じを許せなくなり破壊したくなったり、また、その完成した美しさに癒されたり。いずれにせよ、そのような行為に至る前、一瞬だけケーキを、つまりは完全さを所有した感覚に酔いしれるのかもしれません。そしてその酔いは一瞬にして覚める。なぜなら人間は完成・完全な状態を維持できないから。次の日には向上を求めて何か変えたくなるかもしれない。気づかなくても、毎日老いは進行していく。完璧な関係だと思っていた夫婦仲・恋人仲があっけなく崩れる。そんなことを無言で突き付けてくる、焼き菓子のこうばしさや、フルーツのみずみずしさ、ケーキの佇まいの描写がてんこもりでした。

そんなこんなで、ちょうど明日は尊敬する大先輩とケーキを食べに行きます。

先輩の大変貴重な時間を、経験を、そして知見を得た、そんな感覚が一瞬だけ味わえるのでしょう。そしてきっとお別れした後に絶望する。あの実力は私には備わっていない、と。先輩の背中はまるでケーキそのもののような幻影です。