月別アーカイブ: 2019年5月

『月と日本建築 桂離宮から月を観る』

スローペースでしたが、読了しました。

テーマ性のあるツアーということを考えるに、季節を考えるのは一つのアイディアとなるでしょう。

今までツアーをしていて、月見の文化についてご紹介すると受けが良かったです。春の桜に秋の紅葉。この二つは簡単に思いつくからか海外のお客様の中でもご存知の方が多くとても有名です。しかしながらさらに踏み込んで、シーズン毎、ひいては月ごとに何かしらある、というのはご存知の方は少なく、それらのご紹介により日本人が四季の移り変わりを楽しんできたことをご案内できます。

本の題名こそ月と建築をうたっていますが、そもそも「月」とはどのような意味があるのかを紐解いていきます。各地に数多くある観月の楼建築や、観月橋は一体何なのか。なぜ時の権力者たちはそのような仕掛けを欲したのか。

それは月が満ち欠けをすることで生命のシンボル、老いと再生を思わせるからでありましょう。不完全なものを美しいと感じる日本の美学についても触れられています。

西行法師や松尾芭蕉が月について多くの和歌や表現を残していることも偶然ではないという指摘があります。旅は再生を願うものだからです。帰るべき場所を捨て、新たな地を求めて遍歴する。そしておそらくそれを達成することなく、野で力尽きてしまう。そうすると自分自身が月のように未完成な状態であり、美しいと感じるのでしょう。「月日は百代の過客にして」と『おくのほそ道』は始まりますが、芭蕉が月を旅人になぞらえたこの表現こそが、旅人がいかに月を捉えていたかを示すものだ、ということでした。

また、おそらく死の際に際し、観月を通して再生を願ったのであろう足利義政や豊臣秀吉の事例も出てきます。彼らの場合、権力も手伝って熱狂の度合いが狂気ですが…。シェークスピアの「オセロ」や、その他西洋にもあちらこちらで「月が狂気を引き起こす」という概念がありました。まさに、彼ら権力者は、不死身となるべく月の魔力を求めて、狂気を引き起こす月に翻弄されてしまったのです。

月の魔力と言うと、すぐに思いつくのは狼男なのではないでしょうか。近しいところでいくと、『ハリー・ポッター』のルーピンも月の魔力に影響されていますね。

日本人の月に対する感覚と西洋の感覚が「空恐ろしいもの」という点で一致しています。しかしながら、恐怖は排除するのではなく、崇めるべき対象として奉ってきた日本人としては、そこに美を見いだしている。そこから人々の不完全さに対する憧憬や、繰り返し十五夜を迎え何度でもよみがえる不死という観念に結びつく。そのように整理できるよいきっかけとなる本でした。また、和歌の事例も多く、人々の心情を慮ることができるので、是非ガイディングに活かしていきたい本でした。

また時間を空けて、今度はもっと研究する視点から再読しようと思います。

勝林寺の花手水

勝林寺の花手水が告知されていたので、見に行ってきました。色とりどりの花が手水舎を彩っていて、境内が静かだったのもあり、心静まる空間でした。ちょうど私が行ったときには座禅会が行われていたので、ご住職さんとお話しするのは憚られ、お詣りして限定の御守りを求めて帰路につきました。

私が着いたときには、1グループが手水舎で写真をたくさん撮り始め、身を清めるのに15分ほど待つ羽目になりました。そのグループはお詣りもせずに帰ってしまったので、なんだかなあ、という気はしました。待つの自体は構わないのですが、脇目もふらずに写真を撮り、お詣りせずに帰るというのは、ご住職のSNS等の告知は見ていないのでしょうか。

近頃は寺社仏閣で、神様・仏様とのご縁に感謝して、その次に写真撮影やSNS投稿をしてほしいという声をよく聞きます。信心は強制されるものではありませんから、私の方からお詣りをせよなどと声高に言うものではありませんが、少なくとも本来の目的でそこに来られる人の邪魔にはならないよう、慎ましくありたいものです。

外国人観光客のマナーが叫ばれて久しい昨今ですが、何も外国人に限らないことを改めて感じました。ツアーガイドとして、外国人のお客様をご案内する際には、マナーをお伝えします。そうすると気にしてくださるので、やはり何より知ることが第一歩でしょう。

さて、つらつら述べましたが、私がここを訪れた理由は限定の夏の御守りです。心がすさんでしまわないよう、決意と願いを込めていただいて参りました。

今年の夏も暑そうですし、きちんと安定収入ベースが築けていないという点でも苦労しそうです。夏の涼やかな金魚を見るたび、さもしくならずに伸びやかに美しく生きようと思います。

御室仁和寺 観音堂

373年の歴史の中で初めて公開される、仁和寺の観音堂を見てきました。

仁和寺はそもそも888年のものだとされていますが、数度の戦火を経て、多くの建物が消失してしまっています。その後、江戸時代に再建・移築されたものが残っており、観音堂もその一部ですので、373年前に建てられたものです。

その後、このお堂は僧侶の修行の場として使われてきたため、今日(こんにち)まで一般には公開されてきませんでした。

今回、6年もの修復工事を終え、その工事のための寄進に感謝を示す形で公開に至ったとのことです。

長らく非公開であり、光もあまり届かないことから保存状態が素晴らしく、障壁画も千手観音や二十八部衆などの仏像も色彩が鮮やかに残っていました。

門跡寺院筆頭にふさわしい優美さ持つ仁和寺は、見所たくさん、話のネタもたくさんです。

エポスゴールドカードを入手した話

この度エポスゴールドカードのインビテーションをいただき、カードをアップグレードしてきました。

会社との契約が5月末に終了して無職・プー太郎になる前で良かったです。無職/自営業だと安定収入とは見なされず、カードが作りにくくなると聞きます。

特にゴールドカードを目指していたわけでもなく、秋の繁忙期にマルイで仕事用のカバンや靴を購入する機会が重なり、店員さんの押しに負けて作ってしまいました。その後メインカードがJCBなので、たまたまオンラインでJCBでは決済できない手続きがあり、VISAであるエポスカードを使うことが複数あったのでした。

さらに昨年、引越しをしたのですが、その際の引っ越し代金をエポスカードで決済しました。また、3月にパソコンを1台新規購入したので(夏のボーナスで)、その関係で巷で噂される、「半年で50万を使うとインビテーション」に該当したのだと思います。

利用金額

10月254,745円
11月34,531円
12月33,890円
1月0円
2月72,980円
3月190,409円
4月0円
5月8,222円
合計594,777円

ゴールドカードになったのはいいのですが、ANAのJCBカードをメインカードに使っているため、どのように使い分けようか考えあぐねています。マイルを貯めたいのでANAカードにほとんど全ての引き落としを集約させています。独立に合わせたちょうどいい機会なのでエポスカードは事業用専用にしようかな…とかチラッと思いつつ。

まあ、優待の多いカードなのであまり気負わず、今まで通りVISAを使いたい時・使うしかない時には使い、基本的にはANAカードがいいのでしょう。

『「無理」の構造ーこの世の理不尽さを可視化する』

Kindleをブラウジングしているときに目に入ったので、読みました。

世の中の理不尽は自分の認知バイアスに依存するものだ、というのが趣旨です。

理不尽でもなんでもなく、ただ事実として起こったことをどう捉えるかによって、理にかなっているのか、理不尽なのかの評価が生まれるということです。

これはある程度哲学に馴染みがないと腑に落ちないのかもしれませんが、私は、「あーーわかるーー」と思いながら読みました。

途中、一番「わかるボタン」を押したくなったのは、「見えてないことが見えない人」と話すときの徒労感という項目です。

もはや指摘するのを諦めて、生きるステージを変えようというのが、今回の退職のきっかけですから、苦笑しきりでした。また、共通の言語・言葉・文節を使用しない人との会話に疲れるのも納得しきりです。英語か日本語か中国語か、というような言語ではなくて、もっと大きな、ニュアンス・世界の区切り方の話です。このニュアンスの違いに気づけないのも、「見えてないことが見えない」からでしょう。だとすれば、そういう人はたくさんいるわけです。ここで、「私は違う!」と主張するようであれば、見えてないわけですから、果たして自分はどうだろうか?と振り返る習慣をなくしたくないものです。

どこまで真意が伝わるかというのは難しい問題です。以前、とある旅行業関係者からビジネスのお話をいただいた際、「僕たちは英語力は全く重視していなくて、コミュニケーション力を重視している。」といったことをおっしゃいました。それに対して、「しかし英語力はコミュニケーション力を裏付けますよ。心地よいコミュニケーションには絶対的な英語運用力が必要と考えます。」と返答したところ、「上手な英語は求めていない。ではあなたは海外に行かれて現地の人が完璧な日本語を話すことを求めるんですか?フレンドリーさがあればOKでしょう。」と。(ああ、この人とは話が通じない。)と悟り、その後オファーをお断りしました。正確には、この人とは分かり合えない、ということです。後日、ツアーを見学したところ、エンターテイメントとか、おもしろおかしい雰囲気に走るもの、丁寧さや敬意に欠けるものだったので、全くもって私の理想とは相容れませんでした。

英検3級の人と英検1級が余裕な人では、どちらの方がツアーガイドとして知的な意義深い時間を提供できるかということを考えたことがないからこそ、フレンドリーさというものに頼ろうとするのでしょう。私の言うコミュニケーションが、最低限意思疎通という範疇を超えた意義深い時間を指していたのに対して、相手は意思疎通の範囲にしか視点がなかった。さらに言えば、単なる意思疎通を超えたコミュニケーションという文意が読み取れなかった。

「気づいてないことを気づかない」典型の人だろう、という見極めにより、その後の業務でフラストレーションを溜めずに済んだ。未だ収入面での問題はありますが、そのように考えるとお断りしたのは英断でした。

単なる意志疎通をコミュニケーションという語で表現するのが一般的であることは認識していますが、自分の考えを表明したうえで、プロという文脈においてすら、この意味で用いられることには疑問を投げたいです。

とまあつらつらと関連の薄いことを述べましたが、常に自分の認知をより高次の目線を持って疑ってかかるべきかと思います。そして一度疑って新たな視点を得たら、それに固執するあまり凝り固まらないよう、さらに高次の視点獲得を目指すべきなのでしょう。