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『ペスト』カミュ

コロナ禍以降、何かと話題となったカミュの一冊ですが、ようやく完読しました。フランス文学をどんどん読むぞ!と思っていたはずが全然進みません。
ちなみに読んだのは新潮文庫です。光文社古典新訳文書からも刊行されています。こちらも読みたいのですが、積ん読がどんどん…。

余談ですが編集者の駒井稔さんのトークはいつも熱量あふれ、感動します。光文社の古典新訳文庫全制覇したくなります…。

さて、『ペスト』は非常にコロナ禍において含蓄を含んでいるのは間違いないのですが、カミュのことを思い浮かべると(といっても今頭の中には『異邦人』しかないのですが)、「不条理」というのがやはり避けられないかと思います。というわけで、コロナ/感染症にはあまり興味なく読み飛ばしつつ、思ったことを適当に残しておきます。

カミュの物語の空恐ろしいところは、人間が極限状況においても「通常のふるまい」をし続けられるところではないかと思っています。そしてそれは他者の目から見て「人間味がない」とか「血も涙もない」といった糾弾の対象となるに違いないのですが、本人(例えばリウー)はそうすることでしかその状況に対処できない。

最後の最後に、医師リウーがその心の内までを明らかにしているという点でペストは衝撃的です。人間らしさとか、大衆の立場に立てば、業務をこなすことで個々人の患者に向き合うことなく(いや、実際は心を痛めたとしてもそんな暇さえなく)、淡々と日々を過ごしていく様子は、非難の対象です。実際に、物語中でもそのような場面があります。

そのような状況の中で、彼は自分自身を保つために<通常>の日々をただこなしていく。そのような自分自身の様子に痛みさえ感じている。
そして何より、そのような状況を劇的に変える力を持ち合せないことに絶望すらしている。

リウーは決して血も涙もない人間ではない。医師です。少しでも多くの命を救うことを彼の職務としている。その彼が、血も涙もない人間として見られるという状況、その異常な状況こそが問題なのであって、不満や批判の矛先がリウーに向うことこそが不条理そのものです。

もちろん、ペストというパンデミックが不条理なのだと取ることもできるでしょう。しかし私としては、人間が人間をジャッジするやり方こそが不条理に思えて仕方ないのです。

『日々是好日』森下典子

とても人気でありながら、私自身が茶道になじみのないため、敬遠していた本書を読了しました。

茶道に親しみのない人ほど読むと面白いのでは、と思わされました。

時折、お客様をお抹茶や茶道の体験にお連れするのですが、私自身は通訳をしながらも(う~~~~ん)とか思っていたのですが(本当にごめんなさい……)、型が存在する意味や、小さな茶室の中で完結しない空間の広がり、季節の移り変わりとの密接なかかわりなど、どれもこれも日本事象の極みとしか言えないような事柄が、筆者の実体験から丁寧に掘り起こされていて、読み物としても、参考書としてもおもしろい稀有な一冊だと思います。

小説ではあまりやらないのですが、珍しく付箋を貼りながら、参考文献として読み、ノートに取りました。

そして、これを読んで、ようやく茶道に手を出す決心がつき、知り合いに依頼して手はずを整えました。茶道を社会人になってから始めた友人には、「茶道を始めてから、季節の移り変わりにとても敏感だった小さい頃のあなたのことをよく思い出すよ」と言われているので、楽しめるでしょう!たぶん!

『琥珀のまたたき』小川洋子

現実生活があまりに余裕がなく、更新が滞ってしまいました。

最近は読後の所感しか挙げていませんので、つまりは全く読書をする余裕がなかったということ。良くないですね。

ただ、やっとのことで読んだ本書は、通常運転の際に読めればせかせかした生活から引きはがす力があったように思いますが、この近頃はそれ以上に私の気力がもたず、一章読み進めるごとに手と目を休め、次の日に なり、を繰り返しました。

小川洋子の作品は「静謐」という言葉が良く似合いますね。この作品も例に漏れず、とても静かなものでした。

『海』や『寡黙な死骸/みだらな弔い』などでは、グロテスクさが引き延ばされた感じを受けた記憶があるのですが、本書はそれが目立たないような気がしました。それよりも、もっと些細な小さな誰にも気づかれない生活を大事にしている感じでした。まさに主人公たちが(何の変哲もない)石を自分たちだと信じて大事にするように。

『あひる』今村夏子

3日前にあたる7月17日に芥川賞の発表があり、今村夏子さんが受賞されました。おめでとうございます。

受賞作の『むらさきのスカートの女』は手元になく、未読なのですが、カドフェスの一冊、本書を入手し読了しました。

私はアヒルの大ファンです。あの愛くるしいフォルム、目をひく白さ、つぶらな瞳…。たまりません。幼少期、近くにアヒルを飼っている農家さんがいた関係で、よくうちでは「今日はアヒル見に行く?」「アヒル見に行きたい」といった会話が繰り広げられていました。

さて、読了後真っ先に頭に思い浮かんだのは、「人間の頭の中をそのまま持ってきたみたいだな」ということでした。

人間は、何か出来事を受容し、反芻することで喜怒哀楽を獲得します。出来事を自分が体験した後、人に話すというのも受容のプロセスの一つで、本来の無垢の体験からは離れ、感情的になってしまいがちです。それとは全く逆のありようを作家は描きます。

これはのりたまにはなかった特徴だ。
おかしい。
これはのりたまじゃない。
わたしは隣りに並んで立っていた父と母の顔を見上げた。

「おかしい」というのには喜怒哀楽の感情はありません。「おかしい」と思ったからどうなったのか、怒ったのか、残念に思ったのか、それでもいいと思ったのか、そういった結末が一切なく、話は進んでいきます。

想像力、ひいては観察力のある人間の前では、隠そうとしたことは暴かれてしまいます。その暴露の過程は、社会の中で起こっているのであれば感情を交えるものです。今村夏子の描き方には、当然付け加えられるべき感情が欠落してる。だから頭の中をそのまま持ってきたようだ、と感じたのでした。

だれしも体験している生の体験ですが、時間が経ったり、人間社会で生き、人と関わって会話をしていく以上、感情を絡めた話や経験となるのが普通です。であるならば、この無垢の体験は前面に出てくることはない。それにも関わらず、この作家の描き方は、感情を排除した、淡々とした切り口であるからこそ、多くの人が、例えば解説にあるように、不穏だと感じるのではないでしょうか。普段意識しないものを意識させられる体験というのはえもいわれぬ不安をかき立て、不安定な(解説の言葉を借りれば不穏な)気持ちにさせるものです。

同時に収録されている二作品からは、いんきょのおばあちゃんが認知症ではないことが結論としては読みとれますが、普段から観察し、想像力を働かせた家族は、彼女が認知症であるという結論を導きます。この人間の観察力や想像力は、厄介なもので、間違えることもあります。通常であれば、他人との交流が多角的な観点を生み、修正されていくものですから、問題となることは必ずしも多くありません。つまり、暴露の過程を経験したのち、会話によって修正されるために感情を付加され、無垢なまま終わることは少ない。それにも関わらず、本作ではやはり感情を排除した出来事の描写がメインであるからこそ、不穏な状態が前面に照らし出されます。本来不穏な人間社会ーーただしこれを実感することはないから背面に控えているものーーをまざまざと見せつけられる読書体験だと感じました。

『コンビニ人間』村田沙耶香

昨日、夜にこちらも読了しました。

「普通」の人間に読んで欲しい物語です。しかし、おそらく「普通」であろう人たちの読書メーターのレビューを見てみたら、なんとも悲しくなりました。「こちら」と「あちら」の世界が交わらないことをまざまざと見せつけられた気がします。

主人公はズレてしまっている。「こちら」の人間はみんな、「治す」と表現します。普通でなければ受け入れられない、気持ち悪い、常識がない、といった困ったことになるから、と両親や妹は気にかけます。しかし主人公は自分が何をどう「治す」のかわからないし、自分がズレていることで困っているわけでもない。最初から、主人公のいる「あちら」の世界と普通とされる「こちら」の世界が平行線であることが見て取れます。

主人公は「こちら」の世界にいるように振舞うことで愛する両親や妹が安心するのを見て、「こちら」のマニュアルを自分なりに蓄積してみた。しかし、そのマニュアル通りにしか行動できないのがまた「あちら」の住人であることを醸し出してしまうことで、「こちら」の人間からは忌避されてしまう…。

もう一人、主人公が飼い始めた男性について、読書メーターでは「こんなやつは嫌だ」という意見が目立ったように見えたのですが、彼は「こちら」の人間です。「あちら」と「こちら」は平行なので交わることはない。だからそこに接点がないのだから怒りや喜びなどの感情も起こりえない。しかしこの白羽は自分の置かれた状況に対して徹底的に感情を露わにして反発する。「こちら」の世界にいながら、「こちら」の世界のルールも理解しながら、その行動ができない。能力が欠けているのか、意欲が欠けているのか、そういった理由は抜きにして、「レールから外れてしまった」。「こちら」の世界はレールから外れてしまうと復帰が難しい。なぜなら、みんな「レールの上」を行っているから救い上げる術がない。

読書メーターで、白羽について「こんなやつは嫌だ」という感想はすなわち、社会的弱者やレールから外れてしまった人間を、蔑み、忌み嫌う目そのものです。だから私はこの物語を読み終わった瞬間、「普通」の人がその目を持っていることに気付いてほしかった。

主人公の古倉は問題ではないのです。古倉は自分を問題だと思っていない。「普通」のマニュアルを「こちら」に適応すべく作った。それを奇異の目で侵犯し、晒上げるのは「こちら」の人間のエゴです。多数派の暴力です。しかし彼女の場合は、「あちら」の住人だからそもそも「こちら」のルールを意に介さない。その暴力を受け流してしまう。白羽は、「こちら」にいるのに、「レール」から外れたから「あちら」へと排除されようとしている。でも彼はそもそも「こちら」の人間だからいくら「普通」の人たちが蓋をし、追い払ったと思ったところで、白羽は自分自身を「あちら」だと認識し得ないのです。それが彼の葛藤と妬みを生む。そこで「あちら」に行けない彼が、自身の姿を消すことを望んでもそれを許さないのは「こちら」の人間です。これもまた多数派の暴力です。平たい言葉で言えば、同調圧力でしょう。

「普通」の人たちも多かれ少なかれズレてはいる。そのズレがあまりに大きくなった時、排除しようとしたり、奇異の目で振り回しているのは人間を、生活を、蹂躙していることです。それにすら気づかない「普通」に警鐘を鳴らす作品だったと思います。だからこの物語に共感できるとか、気持ち悪いとかそんな感想を抱いていることにこそ、考察の目が向けられるべきでしょう。しかしそれは起こるはずがありません。なぜなら「普通」の人たちは、その感情をすぐに排除するから…。