『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』竹内整一

読んだまま気力がなさすぎて読了後言語化せずに放置していた本たちをアップしていきます。
お知り合いのガイドさんと会う機会が多々あるので、情報交換の意も込めて、ガイディングに直結しそうなものから優先的に。

まずはこちら。

別れに際して、なぜ日本語では、Goodbye (神の慈悲を乞うもの) やSee you (再会を期待するもの) ではなく、「左様ならば」という言葉の転じた「さようなら」が別れの挨拶なのか、ということを巡って考察された一冊です。

「左様ならば」というのは、文字通り、今の状況を受け入れるときに使う言葉であり、上述のGod be with ye (=古英語で現代語のyouに相当) が転じた神の慈悲を願うものや、See you とは大きく性質が異なります。そして多くの言語で別れの挨拶というのは、この二種に分類されるため、日本語の異質性が際立ちます。

この本から日本人の物の捉え方、ひいては死生観がくみ取れるので、精神的な深いレベルでの日本/外国(この場合西洋が適切) を捉えるのに役立つ一冊でしょう。海外からのお客様をご案内する上で、ガイディングの小ネタとして使えるのはもちろん、つまりは、茶道や華道をうまく説明できないときに立ち返っても良い基本的な物の捉え方であるとも言えます。(ただし、外国について考察しているわけではなく、あくまで日本の「さようなら」に見られる精神性を論じているので、西洋と比較するにあたっては自身で考察を深める必要があります。)

その中で最も大切なのが、「自ずから」という単語でしょうか。「おのずから/みずから」どちらにも読めてしまう単語ですが、まさにそのどちらにも読めるというのが象徴的です。「おのずから」というのは、物事が自然とそうなったという意味を持つのに対し、「みずから」というのはそれとは逆の、自分の意思で物事を動かしたという意味を持ちます。つまり、一見すると真逆のことを指す言葉が全く同じ表現をとっています。ここに個と全体の関係を見出すことができます。

例えば志賀直哉は川のしずく一滴を例に挙げます。果たしてしずく一滴は個なのか全体なのか?その一滴が全体を形作るものでありながら、一滴を意識することはない。ただし、やはりその一滴が全体を形作っている。つまり全体と部分は一方を選択すべき対立項なのではなく、全体の一部が部分であり、部分の集合が全体である通り、しずく一滴も全体であり、部分でもある。

この考え方を死へ拡大します。生きた今日と死んだ明日は断絶したものなのか。答えは否です。断絶だと考えるのは、部分にしか目を向けていません。生きた今日と死んだ明日は全く別の部分でありながら、一つの時という全体を形作るものです。であるならば、生きた今日の先に明日があるに過ぎません。さらに言えば、死を考えない毎日において、今日と明日は別物であるけれども全くの別物ではない。全く同じ理論です。すべからく、物事はこのような連綿たる流れを打ち切ることはできない、「左様であれば」今の現状をそのまま受け入れるしかない、という精神に至ります。

別れた後の神の慈悲を願うでも、また会う日という未来を考えるのでもなく、どこまでも、今、この現状についての諦観が「さようなら」を生み出しています。今わの際、切腹の際、今生の別れ等々、絶望しても良さそうな場面で用いられるその諦観は決して悲観ではなく、楽観でもない、ただただ現状を受け入れるだけです。そのことについてアン・リンドバーグが次のように書いたのは有名です。本書でも言及されています。

For Sayonara, literally translated, “Since it must be so,” of all the good-bys I have heard is the most beautiful.
–中略–
But Sayonara says neither too much nor too little.
It is a simple acceptance of fact. All understanding of life lies in its limits. All emotion, smoldering, is banked up behind it. But it says nothing. It is really the unspoken good-by, the pressure of a hand, “Sayonara.”‘

「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまでに耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。
——中略——
けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているものを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ー 「サヨナラ」は。

A・M・リンドバーグ『翼よ、北に』中村妙子訳、2002年、みすず書房

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近頃は二元論的な物の捉え方と二面的・多面的な物の捉え方という点に触れた本を読むことが多くあります。(というより、私自身の興味がそこにあるので、その題材についてでなくても結び付けているだけかもしれませんが。) そこで思うのは、やはり絶対的な存在が君臨する西洋と、役割毎に力を分散した日本の、精神世界のルーツの違いです。

個人的な話をすれば、「お茶がわきました」「お風呂が入りました」という言い方(主体が存在するはずなのに、あくまで「おのずから」起こった現象としての表現) について触れた本を幼少期に読んだ記憶があり、「すごい!」と思って以来この言い方には魅了されています。近頃は電車でも「ドアを閉めます」が主流になり、地元が「ドアが閉まります」だったことも相まって違和感を抱いています。固執した感覚だなと呆れもしますが三つ子の魂なんとやらです。

この自分が主体でない、もしくは主体でいられないという生き方、世界観はまさに、コントロールできないものの中で、ベストを探る私自身の日々の生き方に他なりません。つまりそれがみずから生きることに繋がっていくのですから。

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